ブログを開設いたしました。
第一回目は、「物語の欠片の物語を集めるプロジェクト」のリリースと、皆様へのご協力のお願いです。
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「物語の欠片の物語を集めるプロジェクト」
壊れてしまった品と向き合う中で、心の機微や、形の有り様について、考えてみます。
私自身が破壊したものに限らず、他人が破壊に対してどういう心の動きをするのか、より多く潤沢に想像する機会を得るために、この度、みなさまから「破損した品」の募集に踏み切りました。
この度の募集は、この「物語の欠片の物語を集めるプロフェクト」を元にした個展(2019年度予定)を想定してリリースいたします。
募集に関する詳細をお読みいただき、ご賛同いただけますようでしたら、ぜひご協力ください。
・破損した陶器を、私にください。きっと、割れた陶器ってすぐに捨ててしまいますよね。でも、もし壊してしまった時、私が欲しがってることを思い出してください。
(ガラスやプラスチック製のものでもかまいません。衣服や布製品に関しても、ご相談頂けると幸いです。)
・モノとあなたのエピソードを聞かせてください。どんな経緯で出会ったのか、どんな経緯で破損してしまったのか、破損してしまった時の心境はどんなものだったのか、ヒアリングします。
受け渡しの方法は、人によって異なってくると思います。
まずは当HPのコンタクトページからご連絡ください。
受け渡しの方法、ヒアリングの方法など、ご相談させていただければと存じます。
※お預けいただいた品は、基本的には私の作品の素材とすることをご了承ください。修繕の依頼はお受けいたしません。あくまで作品として利用させていただくことをご了承いただいた上での寄付をお願いいたします。
(発表の後の返却をご希望の方は、別途ご相談ください。)
※もちろん、故意に割ったりしないでください。大変危険です。
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このプロジェクトの動機を書きます。
2017年、3月ごろだったか。
ある日、私は意図的に、コーヒーカップを何個も何個も床に叩きつけました。
シンプルな安物だけど、自分で選んだ、思い出も愛着もあるコーヒーカップです。
真っ白でつるんとした、手のひらに収まりの良い、丸みのあるコーヒーカップ。
それを意図的に、硬い床に力を込めて叩きつけました。
カップは鈴の音のような軽やかな音と共に、鋭利な破片に姿を変え、部屋に飛び散りました。
何個も、何個も。
その後の数日間、私は朝満員電車に乗りながら会社に出勤し、普通に暮らしてました。
ただ一つ変だったのは、欠片をわざと片付けなかったことです。
何日間かは床に転がったままの無数の欠片を、わざと見ないように、触れないように暮らしました。
そして何日間かは、眺めながら暮らしました。
無視と観察の数日間を経た後、私はようやく、それらを拾い集めました。
そしてわたしは修復の手法を調べ始めました。
そして見つけたのが陶器の修繕方法として古来から受け継がれてきた工芸技法、「金継ぎ」です。
私が今まで取り組んでいた金継ぎは、全て自分で割ったものでした。
いまのところ、私にとって金継ぎの作業は、暴力の隠匿と、暴力の原因となった負の感情への理解です。
この度、みなさまから「破損してしまった品」を募ろうと思ったのは、破壊された品に込められた物語の幅広さを目撃すると共に、それに対する人の心の機微をより多く観察する機会を欲したからに他なりません。
そこには慈しみや後悔や、怒りや喜びがあるだろうと予想します。
みなさんの所持する破壊の痕跡と向き合うことで、そこにある物語をできるだけ多く目撃したいと望んでいます。
そして、その観察と制作の経過報告として、2019年度にこのプロジェクトを据えた個展を予定しています。
出来上がる作品がどのようなものであるか、正直なところ、まだ全貌は見えていません。
皆様から集まる欠片が、上に記したような、あからさまな故意が原因のものとは断定できない以上、「破壊=暴力/再生=隠匿」と定義づけることはできないでしょう。
また、必ずしも金継ぎ技法がふさわしいのかどうかも、その品や物語との対話の中で流動するでしょう。
どこまで作品に飛距離が出るかはまだ見えていないのです。
ですが、他人の物語を募ることで、未知数を引き入れることが可能になります。
「物語の欠片の物語を集めるプロジェクト」はどこに着地するかわかりません。
ですが、破壊された品、預けられた欠片と向き合う過程を個展で報告することはお約束いたします。
ご興味を持っていただけた方はCONTACTからお問い合わせください。
2017年12月24日
杉岡みなみ
第一回目は、「物語の欠片の物語を集めるプロジェクト」のリリースと、皆様へのご協力のお願いです。
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「物語の欠片の物語を集めるプロジェクト」
壊れてしまった品と向き合う中で、心の機微や、形の有り様について、考えてみます。
私自身が破壊したものに限らず、他人が破壊に対してどういう心の動きをするのか、より多く潤沢に想像する機会を得るために、この度、みなさまから「破損した品」の募集に踏み切りました。
この度の募集は、この「物語の欠片の物語を集めるプロフェクト」を元にした個展(2019年度予定)を想定してリリースいたします。
募集に関する詳細をお読みいただき、ご賛同いただけますようでしたら、ぜひご協力ください。
・破損した陶器を、私にください。きっと、割れた陶器ってすぐに捨ててしまいますよね。でも、もし壊してしまった時、私が欲しがってることを思い出してください。
(ガラスやプラスチック製のものでもかまいません。衣服や布製品に関しても、ご相談頂けると幸いです。)
・モノとあなたのエピソードを聞かせてください。どんな経緯で出会ったのか、どんな経緯で破損してしまったのか、破損してしまった時の心境はどんなものだったのか、ヒアリングします。
受け渡しの方法は、人によって異なってくると思います。
まずは当HPのコンタクトページからご連絡ください。
受け渡しの方法、ヒアリングの方法など、ご相談させていただければと存じます。
※お預けいただいた品は、基本的には私の作品の素材とすることをご了承ください。修繕の依頼はお受けいたしません。あくまで作品として利用させていただくことをご了承いただいた上での寄付をお願いいたします。
(発表の後の返却をご希望の方は、別途ご相談ください。)
※もちろん、故意に割ったりしないでください。大変危険です。
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このプロジェクトの動機を書きます。
2017年、3月ごろだったか。
ある日、私は意図的に、コーヒーカップを何個も何個も床に叩きつけました。
シンプルな安物だけど、自分で選んだ、思い出も愛着もあるコーヒーカップです。
真っ白でつるんとした、手のひらに収まりの良い、丸みのあるコーヒーカップ。
それを意図的に、硬い床に力を込めて叩きつけました。
カップは鈴の音のような軽やかな音と共に、鋭利な破片に姿を変え、部屋に飛び散りました。
何個も、何個も。
その後の数日間、私は朝満員電車に乗りながら会社に出勤し、普通に暮らしてました。
ただ一つ変だったのは、欠片をわざと片付けなかったことです。
何日間かは床に転がったままの無数の欠片を、わざと見ないように、触れないように暮らしました。
そして何日間かは、眺めながら暮らしました。
無視と観察の数日間を経た後、私はようやく、それらを拾い集めました。
そしてわたしは修復の手法を調べ始めました。
そして見つけたのが陶器の修繕方法として古来から受け継がれてきた工芸技法、「金継ぎ」です。
私が今まで取り組んでいた金継ぎは、全て自分で割ったものでした。
いまのところ、私にとって金継ぎの作業は、暴力の隠匿と、暴力の原因となった負の感情への理解です。
この度、みなさまから「破損してしまった品」を募ろうと思ったのは、破壊された品に込められた物語の幅広さを目撃すると共に、それに対する人の心の機微をより多く観察する機会を欲したからに他なりません。
そこには慈しみや後悔や、怒りや喜びがあるだろうと予想します。
みなさんの所持する破壊の痕跡と向き合うことで、そこにある物語をできるだけ多く目撃したいと望んでいます。
そして、その観察と制作の経過報告として、2019年度にこのプロジェクトを据えた個展を予定しています。
出来上がる作品がどのようなものであるか、正直なところ、まだ全貌は見えていません。
皆様から集まる欠片が、上に記したような、あからさまな故意が原因のものとは断定できない以上、「破壊=暴力/再生=隠匿」と定義づけることはできないでしょう。
また、必ずしも金継ぎ技法がふさわしいのかどうかも、その品や物語との対話の中で流動するでしょう。
どこまで作品に飛距離が出るかはまだ見えていないのです。
ですが、他人の物語を募ることで、未知数を引き入れることが可能になります。
「物語の欠片の物語を集めるプロジェクト」はどこに着地するかわかりません。
ですが、破壊された品、預けられた欠片と向き合う過程を個展で報告することはお約束いたします。
ご興味を持っていただけた方はCONTACTからお問い合わせください。
2017年12月24日
杉岡みなみ